赤ちゃんがおっさんめいているのは (漫想新聞6号掲載)

新生児の顔や仕草が男女問わず「おっさん」めいているという話を聴いた事がある人は多いのではないだろうか。私の子も例外ではなく……というか正直想像以上だった。新生児にとっておっぱいやミルクを飲むのは必死の重労働で、お腹いっぱいになるまで飲んだ子は真っ赤に上気し、かつ満足してぐったり……をこえてぐにゃんぐにゃんとした状態になる。そんな様子の子を抱きかかえていると、酔っ払いのおっさんを介抱している様な気持ちになった。酔っ払いのおっさんなのに大きさが小さい、という意味のわからなさが笑える。

顔つきについても、同じく小さな子を持つ知人がこんな事を呟いていた。

「新生児は容貌がガッツ石松派・出川哲朗派にほぼ二分されると聞いた気がする(うろ覚え)ので亀井静香は寧ろ個性がありいいと思います。」( Adeosy https://twitter.com/adeosy/status/653497466243846144

そう言われてみると、自分の子については高木ブーに似ているなと思っている時期があって、産まれた時から目と頰の間にあるシワの事を「ブーちゃんライン」と呼んでいる。「ブーちゃん」というのは高木ブーのブーでもあり、またこのラインがある事で頬のふくらみが強調されて、ブ〜ッと膨らんでいる様に見える効果を感じるという意味も含んでいる。ちなみに、これは新生児の顔のシワとは異なり表情筋の境目が見えているものらしく、子が一歳八ヶ月になる今でも残っている。

この様に新生児の見た目が「おっさん」に例えられやすい理由は、ひとつには顔がしわくちゃな事が挙げられると思う。それが「おばさん」ではなく「おっさん」なのは、大人の女性については化粧をしている顔を記憶している事が多いという理由と、だいたいの新生児が薄毛なので、薄毛の中高年男性という姿に結びつきやすいという事があると思う。

また、新生児の表情には成長によって獲得される類の動きがなく、あくび、眠くて目を閉じる、泣くといった生理的な動きしかしない。これが、表情筋の筋力の低下や、加齢に伴う落ちつきや情動の鈍化、場合によっては痴呆などによる、中高年〜老人の表情の動きの少なさと結びつく。

私の子が産まれてまだ一月も経たないころ、彼を抱いて顔を見ながら、自分の父に似ているなと感じていた。遺伝によって似ているという事ももちろんあるのだろうが、父が死んだのが子の産まれる一年半ほど前で、パーキンソン病の症状で表情に乏しかった晩年の父の様子の記憶が新しかったという事もあり、新生児らしい、黙ってどこかを見ているようなどこも見ていないような表情は、父が黙って何か考え事をしている時の雰囲気を強く感じさせた。私は懐かしさと同時に、赤子に戻ってしまった父を抱いているような奇妙な感覚を抱いていた。

ところが今になって当時の写真を見返すと、特に父にも高木ブーにも似ていないな……と感じる。「強いて言えば似てるとも言える」くらいの類似度だと思う。そもそも、高木ブーの顔にブーちゃんラインはなく、自分の勘違いだった(!?)。新生児の子育てという、睡眠時間が不規則になりあまり外にも出ない生活で、その子の顔ばかりじっと見つめていると、認識にゆるみができるというか、あるいは脳が少し暴走して手当たり次第に「記憶にある顔のパターン」と結びつけてしまうのかもしれない。

そもそも、インターネットでも育児雑誌でもいいので多くの新生児の顔を見比べてもらうと分かるのだが、新生児たちはだいたい似た様な顔をしている。それは個別の「〇〇ちゃん」「△△ちゃん」といった人格を感じさせる部分よりも「霊長類ヒト科の赤ちゃん」という印象の方が強い。新生児の顔のつくりが個々人として把握するには曖昧性があり、また人間の顔の祖型ともいえる状態である事と、それを見る親の精神状態に生じる隙、そういった要素が合わさって、それは見る者の記憶にある他の顔の形と容易に結びついてしまう。

だからメディアで度々目にして記憶に残っている有名人の中高年男性達の顔や、父親といった自分にとって身近で、また遺伝的にも近い中高年男性の顔に対しては、特に新生児が似ている顔だと感じやすいのだろう。という事は、メディアの発達していなかった時代には、新生児は親にとって、専ら自身の親に似ていると認識されやすい存在だった筈だ。私が感じた様な懐かしさや畏しさ、あるいは奇妙な感覚を新生児に対して抱いた親たちも少なくなかったかもしれない。人々の親への想いが様々である様に、その事が及ぼす効果も様々だっただろうが、少なくとも新生児が取るに足らない小さな存在ではない、無視できない存在感を持ったものとして生活に受け入れられるために、その顔を見ていると身近な中高年を思い出すという現象が役に立ってきた部分もあったに違いない。よく言われるように子供の成長は早く、そんな新生児らしい容貌は数週間で消え去って、誰が見ても「おっさん」とは言えない立派な乳児になる。そして一歳になる頃には「○○ちゃん」個人としての顔立ちもはっきりしてきて、立ち居振る舞いや表情にも個性が現れる様になって、保育園などで一歳児が沢山いる部屋の中でも各人の見分けがはっきりと分かる様になる。そんな頃の親にとっては「新生児はおっさんに似ている」と言えば単なる笑い話というか、早くもちょっと懐かしい感じの「あるあるネタ」となってしまうのだが、それはまだ社会性を持たない新生児が、家族という最初の社会に受け入れられるために役立つ道具であったとも考えられるのだ。


このエッセイは「漫想新聞 第6号」に掲載されています。通販品切れで掲載から時間も経っているため、全文掲載しました。GHQとか青鞜とか他の記事も面白いので機会があったら読んでね。漫想新聞。